・「神」と聞いて・・・
それぞれがイメージする「神」があり、その「神」に好きな「ラベル」を貼って、「これが私の神様です」と考えることはないでしょうか・・・
・けれども、キリストを主と信じる私たちが「天にいます父よ」と祈る時、そこで口にしているのは「ラベル」ではないですね。生きておられ、人格をもっておられるお方です。
だれにもなにものにも妨げられることなく御心のままに行動なさるお方です。そのお方が小さな私たちの祈りを聞いてくださるのですね。
(参照)出エジプト記 3章 <神様がモーセに燃える柴の中から語りかける場面>
モーセは尋ねます。「私は一体誰だというのですか。取るに足りない者です。もしイスラエルの人々があなたを遣わした方がどなたかと聞いてきたら何と答えたらよいでしょう?」
その時の神様のお答えはこうです。
(3:14)神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」
・『わたしはある』とは、きのうもきょうもあしたも変わらずにおられるお方ということです。時間や場所によって制限をされることのない、無限のお方だということです。無限の力をおもちの「全能者」であり、「永遠の存在者」ということです。どんな過ちや罪とも無縁の「聖なるお方」だということです。
モーセは自分に語りかける神様を仰ぎ見ることができず、顔を隠しました(3:6)。
私たちも同じです。「聖なるお方」を仰ぎ見ることはできません。
・それにもかかわらず、私たちはきょう、祈りの中で「天にいます父よ」と呼びかけ、神様と親しく語り合うことができるのです。なぜですか?
キリストが十字架によってこの神様へ通じる道を開いて下さったからです。感謝!
ヘブル13:14~15
「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」
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